「これは水です」は、アメリカの作家デヴィット・フォスター・ウォレスがアメリカの大学の卒業スピーチを頼まれた際、卒業性に向かってスピーチで述べたことを一冊の本にしたものです。
「あなたにとって座右の書ってなんですか?」と聞かれたときは、私はこの一冊をあげます。
単なる卒業生へのスピーチになぜこんなにも私は心を動かされたのか?
気になります?
…それでは本書のポイントをご紹介していきましょう。
「いったい水ってなんのこと?」
ウォレスは、スピーチの冒頭に寓話を持ち出します。
要約しますと、海の中で泳いでいる二匹の若いおサカナが、年上のおサカナから「おはよう、坊や、水はどうかい?」と軽い挨拶をされます。そのあとその二匹のおサカナはしばらく泳いだ後、一匹のおサカナは、はっ、となって、隣のおサカナに
「いったい、水って何のこと?」
と問いかけました。
という寓話です。
要はこの寓話は何を指示しているかというと、身の回りで起きている、当たり前すぎる現実というのは、
ウォレス曰く「目で見ることも、口で語ることも至難のわざである」ということ。つまり、
私たちがが目にして感じている現実というのは、真実とは限らない、ということです。
何をあたり前なことを、と感じるかもしれませんが、日々の生活、仕事に追われるようになると、私たちはとたんにこの真実を忘れてしまいます。
テンプレートで解釈しないこと
ウォレスはもう一つ寓話を持ち出します。
要約すると、神様の存在を信じている男と、信じていない男が、神様の存在についてバーで議論をしているのですが、
神様を信じていない男の方が、以前雪山で遭難しかけた時、空に向かって「神様助けてください」と祈ったとき、偶然にも通りかかったエスキモーが道を案内してくれて助けられた。という話をします。
神様の存在を信じている男からしたら、神様に祈ったから、生還できたのだろう。という解釈になるし、神様の存在を信じていない男からしたら、たまたまエスキモーが通り掛かったから生還できたんだ、という解釈になります。
それはそれで、何を信じるかは人それぞれですが、重要なことは、
その、有神論、無神論などを信じる、信条のテンプレートが、
その男たちの内面のどこから生まれてきたのかという視点まで、どうしてもたどり着かないことです。
私たちは他人を理解しているようで、実は、テンプレートの表面だけなぞって、本質をまったくとらえてないんだと気づかされます。
来る日も来る日も
ウォレスは卒業生たちに向かって、これから送る人生の大部分は、
「退屈、決まりきった日常、ささいな苛立ち」の連続であるといいます。
ウォレスは社会人の実例として一つ取り上げます。
一日、9時間、10時間働いて、明日も仕事があるので早めに休みたいと思っていたが、スーパーよらないといけないのを思い出して、途中車でスーパーに寄ります。
でも、平日の夕方なので、道は大渋滞。みんな同じことを考えますから。
それでやっとたどり着いたスーパーも混雑していて、カートを人ごみを縫うように進んでいって食材を積んで、レジにたどり着いたら、レジも長蛇の列。
やっとのこと車に荷物を積み込んだら、帰りの道も大渋滞でのろのろ車が進んでいる。
そんな毎日の連続だ、とウォレスは言います。そんな毎日を来る日も来る日も過ごしているうちに、やがて、無意識になっていって、私たちは本質的な意味の理解に努めようとしなくなります。
スーパーにごった返す人たちや、渋滞の前行く車は、邪魔なクソどもに思えてきますが、
ちゃんと、本質的に理解しようと努めれば、
前行く車は、以前車両事故を起こして、安全運転を心がけようとしているのかもしれないし、割り込んでくる車だって実は病院に急ぐ用事があって急いでいるのかもしれないし、スーパーの行列だって、私だけじゃなくて並んでいる皆さんも同じようにイライラしているのかもしれません。
むしろ邪魔なのは私の方じゃないのか?
と考えることもできるのです。
この精神を律するには、意思のたゆまぬ努力が必要だと、無意識にしていれば、はなからそう考えようとさえしなくなる、と語っています。
何を崇拝すべきかはあなたが決めなければならない
先ほど、有神論、無神論について触れましたが、日本人は無神論者が多いと思います。
だから、私たちはなにかを信仰しているという実感が薄いかもしれませんが、
われわれ人間は、何かしらの価値を崇拝しているものです。
無神論者であっても、悪いことをしたら因果応報が巡ってくるんじゃ、と思ったりしますよね。つまりそれは、私たちは何らかの価値を信じているんです。それを守らなければ、ひどい目にあってしまうと思い込んでしまうものなのです。
だから、私たちにできることは、
何を崇拝すべきかを選ぶ、ということです。
お金を崇拝すれば、限りがないので満たされることはありません。権力を崇拝すれば、他人を寄せ付けまいともっともっと努力する必要があります。知性を崇拝すれば、バカな自分をひけらかさない様、びくびく怯える日々になります。
この崇拝の恐ろしいところは、無意識でしてしまっていることです。だからこそ私たちは、自意識をちゃんと持って、努力し続けなければなりません。
一生をかけた大仕事
自意識をちゃんと持って、社会人として来る日も来る日も生きていくことは、想像を絶するほど難しいです。
ですが、自分をそうやって啓蒙していくことこそが、一生をかけた大仕事である。と思えませんか?
わたしも、それこそが人生のテーマだと思って、頑張っていこうと思えた本でした。
参考文献:(kindle版がありませんでしたので、画像が省略させていただきます)
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